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ゼミについて考えたこと(1)テーマ編

やりたいことができるゼミってどういうことか

先日、OBと話をしていたら、「やりたいことが出来るゼミだったなって思うんですけど」と言われて、おっとまたその話かと思いつつ、続きを待っていると、「でもずっと疑問なことがあってやりたいことがない人はどうしたらいいんでしょうかね」と問いかけられた。自分はずっとやりたいことなんてないんですよとも付け加えて。確かに、私のゼミでは研究テーマやプロジェクトなど、ゼミの活動としてやることは自分で決めなくてはならない。自分で決めるといっても3年次はプロジェクトチームを組成するので、ある程度周りと関心の重なる部分を探して調整する必要はあるのだけど。それに縛りもあまりなくて、商学部の研究だと主張できるようにしようということ、私の専門である管理会計研究の視点からのアドバイスになっちゃうよということぐらいだ。そう考えると、大体何でもできそうなゼミではある。でも、彼はむしろプロジェクトのリーダーをやっていたのに、どうも認識がずれているなと思い考え込んでしまった。

彼が在学中のことを思い返してみると、「やりたいこと」をやっていたような記憶がある。少なくとも先輩が立ち上げたイベントの運営を、自ら志願して引き継いで開催までこぎつけていたように思う。誘われたのかもしれないけど、結果的にリーダー的なポジションだった。それでも彼は「やりたいことはなかった」という。そこまで思い出して、学生のいう、あるいは人の言う「やりたいこと」っていうのはいったい何だろうか。そして、それができるというのは、どういう意味なのだろうかとふとした疑問が生まれた。

翻って、うちのゼミは「やりたいことができるゼミ」なのだろうか、そして、「やりたいことがない人」にはどう対応してきたのだろうか。また、やりたいことを「できる」ようにしてきたのだろうか。この謎を解くためにジャングルの奥地に向かうのではなく、記憶をたどりながら考えてみている。

やりたいことを確保するということ

まず「やりたいこと」を探るために、現役のゼミ生に「やりたいことができる」の「やりたいこと」ってどんなことが例なのかと聞いてみた。すると、目を輝かせながらバーベーキューとかですかねとか言い出す。初動から致命の一撃を放ってくるじゃないか。いやちょっと待てよと、君がゼミ入ってからバーベーキューやったことないやんと、いやそもそも、それはゼミの本分なのか、そういう質問の仕方してしまったっけかと。で、少し真面目に聞いてみると、自分が好きなことを研究対象として研究できることだという。確かに、先にも書いたとおり、テーマは自分で決めるから、好きなことを研究対象とすることができる。どうやら好きなことをどう研究対象にしていくか(商学部的に)というところがうちのゼミのポイントかもしれない。

OBの話に戻そう。端的に言えば、そういう題材にするような趣味も好みもございませんという人はどうするかという話だった。趣味を持てとか、好きなものを探せとかはよくあるアドバイスだと思うけれど、私はとりあえず人に乗っかることを推奨している。自分の解くべき課題を面白そうに話すやつに乗っかれと。大学院時代の師である京都大学の澤邉紀生先生が、夢がなくても、夢のある人を応援すればいいというようなことをおっしゃっていたのをアレンジしたものだ。私はお行儀が悪いので言葉が少し乱暴なのである。とにかく、ゼミでも3年まではチームでやるので、その時は面白そうな他人のテーマにのっかって課題探しをしていけばいい。そうして視野を広げているうちに解いてみたら面白い問題にいくつも出会えるという希望的観測のもとの指導だ。だからうちのゼミに入るにはやりたいことがないといけないことはないのだ。まあ、考えることは求めるけれども。

上で書いたOBが在学中に取り組んだテーマは、先輩が前年に実施したイベントを引き継いだプロジェクトを実施し、経営学的な観点からその運営について考えるというものであった。当初、本人は学生時代に何か形に残ることをやりたいというようなことを言っていたと思う。それに対して先輩ゼミ生がこれ幸いと自分たちのプロジェクトを引き継がせたというのがきっかけだろう。確かにスタート時点だけ見れば「やりたいこと」はないからプロジェクトとかどうしようと悩んでいた気もするけれど、せっかくの大学生活、「何かをやりたい」という気持ちがあることを伝えてくれたことを覚えている。そんなわけで先輩から半ば巻き込まれる形で、「やりたい何か」を確保することに成功した彼の次のステップは、それを研究対象と変えていくことだった。そのプロジェクトは多様な分野のアーティストを巻き込んで、アーティストと一緒にコラボレーション作品を作り舞台で披露していくオムニバス的公演会だった。これは、異なる視点を持つアーティストたちはどう組織的な生産活動に取り組むのかというプロジェクトマネジメントの一側面だし、当時話題になっていた価値共創の文脈で捉えることもできるものだった。そういう学術的な関連情報を無茶振り的に私から投げられ、それを学習していくことで、管理会計・経営学的な発想でそのプロジェクトを見ていくはめになったように記憶している。

素朴な興味・関心を研究テーマに仕立て上げること

ゼミでやるからには、人の夢であれ、自分の興味関心からくるテーマであれ、研究へと仕立て上げていくプロセスが必要である。そしてそれは基本的には教員との対話の中にある。より具体的には、ゼミ生が得た情報、直面している問題をゼミ内での発表や個別の相談のときに話してもらい、それに対して私は管理会計や経営学に関係するボキャブラリーで質問していく。「やっていること」「好きなこと」や「趣味」を語るときにそれにまつわる経済的な側面を考えてみる、そしてそれが作られ「消費」されるプロセスを説明するという挑戦をしてもらうのだ。それが自分でデキる人は自分でやっていけばいいし、出来ない場合はゼミや相談時間に一緒に探っていく、そんなゼミかもしれない。案外、関連付けて説明するのは難しいのだ。そうやって研究テーマについて、例えば、ゲーム業界やアニメ業界について管理会計的・経営学的な側面に関する現状を掴んでいき、そこにある新しい疑問を探していくことになる。これを大体2年次の後期から3年次の前期ぐらいをかけてやる。その後、問いを作っていくわけだけど、これがまた難しい。この続きはまた需要がありそうなら別記事で書こう。

そんなわけで、冒頭のOBに話を戻す。彼は先輩が始めた夢のプロジェクトを引き継いで最後までやり切った。彼の定義する「やりたいこと」ではなかったけれど。夢を応援するという形で、使命感のようなものもあったんだろう。私からすれば、「何かをやりたい」という「やりたいこと」をやったわけだし、その経験で色々なものを得たように思っている。もちろんそれは学術的な解釈を伴った成果にもなっていた。資料を見返してみると、彼らはダイバーシティマネジメントの文脈でイベントを振り返っていた。そして今もそういう生き方をしていて、人の夢に乗っかって問題意識をもちながら積極的に働いているようだ。実に頼もしいことに。最後に、「やりたいことがないやつはどうしたらいいんでしょうね」という質問をなぜしたのか聞いてみた。すると、「実はそういう後輩がいて、どうアドバイスするべきか迷っている」ということだった。上に書いたような話をしたあとだったから、その答えもうすでに出てますわと、二人して笑ってしまったのであった。何この青春。

やりたいことがなくても、なにかやってみる

まとめると、やりたいことがなくても何かをやってみればいいし、それが何とか研究テーマにならないかなと思考する、調べていくという胆力さえあればなんだってできそうである。奇しくも、先日講演会で来てくれた妙心寺退蔵院の副住職を務める松山大耕さんの話に合ったこととかなり重なっている。そのお話の中で、「他人の声を聴く」というのと、「生かす」というのがあった。「他人の声を聴く」というのは、自分のことは自分よりも他人の方がわかっているという前提に立ち、他人が持ってきた期待を受けてチャレンジするべきだというアドバイスである。それがやりたいことなのかどうかはひとまず置いておいて、やってみるのである。それが自分を作っていく。そして「生かす」というのはいわゆる経験や知識を生かすも殺すも自分次第だから、それを生かせないかと日々虎視眈々と思考しながら狙っておけというようなアドバイスだった。もっといい話だった気もするけれど、私はそう解釈している。私は特に後者の考え方はすごく共感しているし、自分もそういう思考回路で生きている。だから、やりたいことができるかどうかよりも、思い付きのプロジェクトや降って湧いたようなチャンスにトライして、自分と重なってきた色んなことを生かして、そのプロセスを楽しめばいいんじゃないかなと思う。きっとその抽象的な営みがやりたいことなんだろう。

普段のノリとしてはまあ面白そうだしやってみようよと、それをどうにかこうにか解釈していこうよという感じだろうか。まとめが投げっぱなしジャーマンみたいなことになってしまったが、まあ多分、うちのゼミはそういうゼミなんだと思う。しかし、もう少しこう、体系だった教育プログラムとしてゼミのことを考えてみましたみたいな記事にしようと思って書き始めたはずがよくわからないエッセイになってしまった。いやよく読むと冒頭からそんな気はないじゃないかというツッコミも甘んじて受けよう。でもこういうの書くのは楽しいから、またこのテーマで続編というか別の視点について書きたいと思う。早めに。3年更新しないなんてことのないように。

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ACMARに参加したメモ的な何か

はじめに

ドイツのヴァレンダー(コブレンツの隣町)にあるWHUで毎年3月に開かれるAnnual Conference of Management Accounting Research(ACMAR)に参加しました。インスブルックでお世話になってるFerdiとMarek(博士課程の院生:といってもこちらでは講義も持ってます)とこの春にストックホルムに異動してしまったLukasが報告するというので応援も兼ねていきました。自分としては報告もなしで参加したのでせめてブログに記事を書いておくことにしました。 続きを読む

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経営計画に関する論文が掲載されました

しばらくの間取り組んでいた鹿児島の優良中小企業の調査結果を元に書いた論文が原価計算研究に掲載されました。

抜き刷りをPDFでお願いしてみたんだけど、これの方が共有が楽でいいですね。

サブタイトルに言い過ぎじゃないかというコメントもあったみたいで少し反省中です。確かに論文だけだと、エスノグラフィの分量じゃあないんですよね(だから「エスノグラフィに基づく考察」にしてある)。

まあともかく、なんとか公開できて良かったというところです。

結論としては、会計的なコミュニケーションを介して戦略が形成され(絵に描いた餅で無くな)って組織内に共有されるという話を書いた気がします。しかし相変わらず、人や組織はどうやって現状から自由になるのかは、よくわからないままです。今を生きなければ未来はないし、新しいことをやることは多くの場合それと矛盾します。

まあ自由になるためのツールの一つが会計による翻訳だろうと主張したいわけですが、なかなか難しいものです。

論文が欲しい方はメッセください。そしてコメントいただけると大変嬉しいです。

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定性的研究での論文の書き方と理論の使い方について

今更ながら、7月に京都と福岡で開催したリサーチセミナーの報告書を出しました。そこでメスナー教授から教えてもらった国際ジャーナルに定性的研究の掲載を目指すためのチップスについてまとめる機会があったのでここで共有しておきます。なんとなく個人的には3点重要なポイントがあったなと思います。そしてその3点は密接にかかわっていてほぼ同じ問題なんですが。それは下記3点です。

1. 理論の使い方の問題
2. 論文をどの先行研究の延長線上に載せるかを明確化問題
3. 研究の面白さの伝え方問題(2とほぼ同じ問題)

理論の使い方の問題

理論というのは事象を説明するために必要とされている側面と、その理論の中で導出される研究課題によって同じ理論を適用した先行研究を拡張するために用いるという側面があるということです。つまり、理論を用いる時は、その理論を適用することで説明したい事象がわかりやすく(understandable)なることと、理論から事象を見ることによって導出される研究課題に取り組むことが重要だということです。

論文をどの先行研究の延長線上に載せるかを明確化するべしという問題

どの先行研究の延長線上にあるのかを明確にしないとジャーナルで議論されている課題と関連づけられないため評価されないということです。これについてはメスナー教授は実践的な方法を教えてくれました。まず3本の具体的な論文をあげ、それぞれの論文のどの部分の知見を拡大する研究か伝えるように文章を書くと良いとのことでした。

研究の面白さを伝えるべし問題

2点目の変形版なのですが、取り組んでいる研究の面白さを丁寧に伝えなくては、ケース自体の面白さに目を奪われるため学術的な貢献が理解しにくいということです。そしてその面白さは先行研究との差異部分として現れるから先行研究との差異をいかに説明するかが重要となるということです。

まあ、こう書いてしまえば研究のお作法そのものとも言えるかもしれませんが、意識してやらないと思いの外伝わらないってことなのでしょう。言語も違えばコンテキストも違う世界中の研究者とコミュニケーションをするというのはそういうことなんでしょう。理論は国際的な科学コミュニケーションのためにあると言っても過言ではないというのが最近の私の理解です。

さて、インスブルックにきて1週間が過ぎてしまいましたが、よくわからないままとりあえず過ごしています。こっちではドラッグストア的な日用品をまとめて買える便利ショップがないのが目下の困ったところであります。ちなみにこの写真は旧市街のメインストリートなんだけど、まるで絵画のような風景です。通勤する道から少し外れるとここです。すごい。